岸和田だんじり祭(きしわだだんじりまつり)とは、大阪府岸和田市の祭りのこと。曳き手が走り、速度に乗っただんじりを方向転換させる「やりまわし」を見所として、多くの観光客を集める。幾つかの神社の祭りの総称で、基本的には地元の神社でその年の五穀豊穣を祝う祭り。全国的にも知名度が高く、日本を代表する祭りの一つである。

歴史

その歴史は1703年(元禄16年)、時の岸和田藩主岡部長泰公が、京都伏見稲荷大社を岸和田城内三の丸に勧請し、五穀豊穣を祈願し、行った稲荷祭がその始まりと伝えられ、約300年の歴史と伝統を誇る。

概要

岸和田市には全市で82台のだんじりがあり、大きく9つの地区に分かれる。そのうち2地区が9月に祭礼を行い、残りの7地区(山手地区)が10月に祭礼を行う。同じ岸和田市ではあるが、山手地区のだんじり祭の起源は全く異なる。

9月祭礼地区(35町)
岸和田(旧市)地区:22町
春木地区:13町
10月祭礼地区(47町)
八木地区:11町  南掃守地区:8町  旭・太田地区:5町
修斉地区:6町   山直北地区:8町  山直南地区:6町
山滝地区:3町

岸和田(旧市)地区22町

上記の9つの地区の中でも、岸和田だんじり祭の中心的な存在であり、また、全国的にも知られているのが、9月に行われる、岸和田城下を中心とした岸和田(旧市)地区の祭礼で、22町で構成されている。各町から選出された「年番」(=町会の代表)により「岸和田地車祭禮年番」(きしわだだんじりさいれいねんばん)が組織され、祭礼の運営にあたる。岸和田地区は、その中で、さらに中央・浜・天神の3つの地区(三郷)に分けられ、地区毎にその年の当番町を各1町選出し(本年番)、当番町3町が中心となって、その年のだんじり祭の運営を行う(年番長1町、副年番長2町)。毎年9月1日に、岸和田市港緑町の浪切ホールにおいて三郷の寄合いを行う伝統があり、その席で祭礼の重要事項を決定する。祭礼第2日目の本宮には岸城神社へ15町、岸和田天神宮へ6町、弥栄神社へ1町が宮入りを行い、安全を祈願する。

中央地区(8町)
(岸城神社)宮本町、上町、五軒屋町、本町、堺町、南町、北町、南上町(平成19年度から)
浜地区(7町)
(岸城神社)大北町、中北町、大手町、中之濱町、中町、紙屋町、大工町
天神地区(7町)
(岸和田天神宮)沼町、筋海町、並松町、下野町、藤井町、別所町
(弥栄神社)春木南

日程

これまでは9月14日・15日(旧・敬老の日)に行われており、平日である14日は市内の小中学校は休校していた。2003年(平成15年)からハッピーマンデー制度が実施され本宮と祝日が重ならなくなった。祭りの観客動員に響くこと、また社会人や高校生以上の学生などの曳手が参加できなくなり曳行に影響が出ることを踏まえ、2006年(平成18年)に日程が130年ぶりに変更され、敬老の日(9月第3月曜日)の直前の土・日曜日に開催されるようになった。

岸和田(旧市)地区のだんじりの曳行

欅で作られただんじりは鳴り物と呼ばれる大太鼓や鐘を備えている。町ごとに1台づつ持ち、岸和田旧市で22台が存在している。地車に100mほどの2本の綱をつけ、500人程度で地元の町を練り歩く。基本的には、16?23歳程度までの若者が綱を曳き、祀られている神が女神であると信じられているため、女性を地車に乗せないが、曳き手として参加することは許されている。テレビ報道等では、地車が家の屋根を破壊する映像が取り上げられることが多いが、そのような事故はそう多くはない。

祭礼第1日目の早朝、午前6時から一斉に各町のだんじり21台(2007年(平成19年)からは南上町が加わり22台となる)が通称カンカン場へ向かって繰り出し、やりまわしを行い、『曳き出し』が始まる。早い町は午前5時半頃には自町を出発し、『曳き出し』に参加する。第1日目午前9時過ぎより南海岸和田駅前にて『パレード』が行われる。第2日目の午前9時過ぎより祭の最大の神事『宮入り』が岸城神社・岸和田天神宮・弥栄神社で行われ、クライマックスに達する。特に、岸城神社に向かう際の岸和田市役所前(コナカラ坂)のシーンは人気があり、圧巻である。両日の午後7時から10時頃までの間は、『灯入れ曳行』(ひいれえいこう)と呼ばれ、約200個の提灯で飾られただんじりを小さい子供から老人まで楽しめるよう曳行し、昼間のだんじりの「動」に対し、雅やかな「静」を演出している。

だんじり祭と岸和田について

「だんじり」は、岸和田だけでなく、泉州・河内や大阪、神戸、奈良など、関西一円の祭の形態として、広く存在している。「だんじり」には大きく分けて、岸和田型の「下だんじり」と、堺市、泉大津市、大阪市および阪神間などに多い「上だんじり」がある。岸和田市内に82台あるだんじりは、全て岸和田型の「下だんじり」である。また、岸和田市近隣の泉佐野市、貝塚市、和泉市(上代町を除く)、熊取町、忠岡町、田尻町にあるだんじりも、全て岸和田型の「下だんじり」である。(和泉市上代町も平成22年の新調で下だんじりになる)。

岸和田だんじり祭は、昭和の終わりから平成のはじめにかけて、多くのマスコミに取り上げられたこともあり、それまで、関西の一地方の祭であったものが、一気に全国区の祭へと大きな飛躍をとげた。長い伝統を誇る日本の著名な祭の多くが、資金難や町衆のパワー不足のため、現状を維持し、現状のままを後世へ伝えていくのがやっと、というような時代の中で、岸和田だんじり祭は、今でもだんじりを保有する町が年々増加し、ますますパワーアップしている。また、それだけでなく、堺市、高石市、和泉市、泉大津市(濱八町を除く)などの近隣の市でも、今まで「上だんじり」を保有していた町が、新調を機に岸和田型の「下だんじり」に買い換えてしまうケースが後を絶たない、というくらいの勢いと影響力をいまだにもち続けているのである。(大阪市、大阪狭山市、南河内郡太子町、奈良県大和高田市、和歌山県橋本市、香川県坂出市などにも岸和田型下だんじりを購入し、曳行している町がある)。岸和田だんじり祭が、現代においてもこれほどの隆盛をきわめている理由は、岸和田だんじり祭そのものの魅力もさることながら、岸和田という街がおかれた、歴史的・地理的な特殊性・偶然性を抜きにしては語れない。

伝統的で盛大な祭は古くから栄えた街で存在することが多く、そのための要件としては「城下町」「港町」「門前町」等があげられる。「大きな城下町」であった街の多くは、明治以降、「都道府県庁所在地」としてさらに大きな発展を遂げた。ただ、その発展が、祭にとっては逆にあだとなり、城下町として栄え、祭が存在していた中心部では、オフィスビル化・空洞化という現象により、町衆が減少し、その結果として祭の活力がそがれるという結果になることがある。京都の祇園祭などはその典型である。また江戸時代に比較的小さな藩によって築かれた「小さな城下町」の大半は、地方都市として過疎に見舞われ、街の活力とともに祭も活力を失っていったのである。

岸和田は江戸時代に譜代大名・岡部氏5万3000石の比較的「小さな城下町」として栄えていた。本来であれば、このような「小さな城下町」は明治以降、衰退の道をたどるのが一般的であるが、岸和田は、大都市・大阪から約20kmという、その恵まれた立地のために、戦後、大阪を中心とする「関西大都市圏」に組み込まれる形で、地方の小城下町でありながら、大阪のベッドタウンとしてさらに発展を続け、人口も増加していったのである。このため、岸和田は「空洞化」・「過疎化」のいずれにも見舞われることなく、町衆は増え続け、そのパワーも温存することができたのである。このことが今日の岸和田だんじり祭の発展の礎となったといえよう。

だんじり祭の組織

前述したように、京都・祇園祭をはじめとする日本を代表する伝統的な祭りが、都市の空洞化・町民の郊外への流出などにより形骸化していく中、岸和田だんじり祭は、300年余りの間、だんじりを保有する各町の住民たち自らの手により、連綿と継承されてきた。現在もその運営は全て町民・町会により行われ、行政や観光協会がかかわることはほとんどない。また、無理やり後世に伝えていくための「保存会」などは存在しないし、その必要もない。あくまで、普段、盆踊り、スポーツ大会、警備などを行っている町会が、そのまま各町のだんじりの運営組織となる。祭礼になると、町会長はそのまま、各町のだんじり運営の「総括責任者」となる。町会は、祭礼になると年齢別に「世話人会」「若頭」「組」「青年団」「少年団」などのいわゆる「祭礼団体」を組織し、その中から「曳行責任者」を選出する。「曳行責任者」は現場の最高責任者として、町会の最高責任者である「総括責任者」(=町会長)とともに、2日間のだんじり曳行の重責を担う。(岸和田だんじり祭は、毎年多数の死傷者を出すことでも知られているが、不幸にしてだんじりが事故を起こしたり、死傷者が出た際に刑事責任を問われるのは、全て、この「総括責任者(町会長)」・「曳行責任者」であり、行政の長である市長が責任を問われることはない)。このように、岸和田だんじり祭は、現代の平成の時代においても、岸和田市内各町の日常生活の中に根ざした『生きた祭り』であり、また、このことこそが岸和田だんじり祭のパワーの最大の源泉であるといえよう。

だんじり祭りにかかわる人たち

世話人
だんじり祭りの運営を行う。
若頭
組、青年団をまとめ、若者の頭として町の祭を取り仕切る。また、地車の足回り(「こま」と呼ばれるいわゆるタイヤやシャフト)の管理も行い、曳行の際は前梃子(まえてこ)を担当する。
前梃子は左右に1人ずつおり、だんじりの前輪の上にある梃子を押し込む事により旋回やブレーキングを行う。左右の呼吸を合わせることが重要な役割なので、双子の兄弟や親友同士が務めるケースが多い。
拾五人組、参拾人組など町によって名称が違う。後梃子(うしろてこ)を取り持ち、やりまわしのときには梃子に繋がっている綱(どんす=緞子)を横に引く事で地車を旋回させる。青年団を卒業した主に30歳以降の人たちが受け持つ。
大工方
地車の上で舞いを舞う。地車の進路をみて、前方の進路をいち早く発見・調整する役目も果たす。上記「組」の一員である場合がほとんどである。
青年團
特に1625歳の若者で構成される。地車の綱を曳く「綱先」「綱中」「綱元」と、だんじりに乗って太鼓や鐘、笛を鳴らす「鳴り物」とに大別できる。また、綱を持つのを卒業すると、「追い役」となり、曳き手のサポートにまわる。地車の清掃、飾りつけや、進路の路上駐車禁止を呼びかけたり、危険な溝の周りに土嚢を置いたり、ギャラリーを守るなどの役割を負う。

ほかに少年団、子ども会など。婦人会など、地域の人たちも休憩の時に曳き手にお茶や水を振舞うなどの形で参加する。

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