所在地・・・岸和田市宮本町   地図
岸和田の心の拠所である岸城神社の宮総代でだんじりの宮入りは常に一番という特権を持つ。
ゆえに地元では俗に「勝っても負けても宮入一番百姓町」と言われる町である。
百姓町というのは旧町名である。昭和の中頃までは未だ田畑が残り、田んぼから蛙の鳴き声も聞こえたと
いうその名通りののどかな一面があった。
しかし、今は南海岸和田駅前に位置し、一時の賑わいは無くなったとはいえ繁華街の町である。じめ蔵、当
町内には「岸和田」の地名の由来となったという説がある和田氏の末えいが移住し、その住宅は主屋をは離
れ、長屋門などが平成14年(2002)に国の登録文化財に指定された。
昭和五年(1930)に地元、この町に住む大工棟梁・加奥久吉師が作事したものである。
この加奥氏江戸時代から続く老舗の大工棟梁家であり、当時町内にはその他に数家の大工棟梁の老舗が
あった。現地車は大正十年(1921)に新調され、大工棟梁は先述したその加奥久吉師、彫物責任者は和
泉彫の流れを汲む上間庄平師である。助彫物師には上間貫治師、伊藤松吉師らがあたっている。
この地車の土呂幕正面には上間庄平師渾身の気迫ある彫物「薄田隼人正徳川本陣討入」が組み込まれて
おり見応えがある。また纏(まとい)は二種類あり、一つは紫の縮緬に町名を染め抜いた町旗で今ひつは宮
入だけに使用される纏で、竿頭に岸城神社の御神紋と岸和田の市章を図案化した三方正面の下に金の馬
簾(ばれん)取り付けたものである。これは大正十年の新調時に町内の篤志家から寄贈された立派なもので
ある。宮本町は岸城神社宮本一番である誇りから、本纏や地車正面の飾り旗などには「町」をつけずに「宮
本」の二文字だけを入れている。
町内に保存される文化八年(1811)制作の大太鼓は、岸和田城大手門太鼓櫓に設置されていたもので、
武士たちが登城する説きに打ち鳴らしたもので、藩主の岡部公から拝領されたと伝えられている。
先代地車は大正七年(1918)に町内の老舗大工棟梁「大喜」こと小川喜兵衛(音吉)棟梁により作事され、
現地車と同じ上間庄平師により彫られたものである。現在の熊取町大久保地車である。
先々代は明治十三年(1880)制作の名地車、現在の堺市原田地車である。
三先代は大工棟梁不明であるが江戸末期に制作され、彫物師は花岡一門と「彫徳」は「彫又」の西岡徳次
郎師か「相籐」相野徳兵衛師と推測され、「牡丹に唐獅子」の一枚彫であったらしい。
宮本地車は岸城神社御本殿新築と時を合わせるがごとく、平成二十年(2008)には新調され装いも新たに
なる。大工棟梁は町内の吉野寿久師であり、加奥久吉師、小川喜兵衛師代々地元の大工によって制作され
てきたご縁か、これを作事される。